
実を言うと、物心ついた頃から
書くということに呪われていたように思う。
自由帳一冊を一日で書き潰した日々には母に怒られた。
作文の授業ではものの十数分で書き終えることに誇りを持った。
かといって、書くという才能は
ついに誰にも知られる由もなく死のうとしている。
これはまごう事なき呪いである。
だから私は―。
私が心より愛する人たちへ。
書くとは、これほどまでに素敵な魔法なのだと見せかけたい。
「自分のことは、誰よりも自分が知っている」
確か昔、会社の先輩がそんなことを言っていたような。そして、私もそう思う。さらに言えば、私には人一倍その自信がある。
その理由は、私が真面目だからだとか、MBTIで提唱者タイプ[注1]だからだとか、エニアグラムで調べる人タイプ[注2]だからだとか、そういったカテゴライズの話ではない。そうではなく、自分自身の心だけは唯一、見透かせるからである。
[注1]理想主義で思慮深く、人の心や物事の背景をじっくり考えるのが好きな傾向
[注2]知識を求め、物事を客観的に観察・分析する傾向
他人の心であっても、気心の知れた仲間であったり、あるいは自身の感受性が高まっていたりすれば、見えない心の一端が見えることもある。しかし、どんな理論や言葉を持ったとしても、そのすべてが見えることはないのだ。一方で、自分の心はその胸に手を押し当てるだけで見ることができる。
だから私はここに私を書きたい。ただ自己紹介をしたってつまらないし、先ほども言った通り、それを読むのは「他人」であるあなただからだ。果たして、文字だけで「私の輪郭」を描けるのか。私はそれを試してみたい。
どうかこの先続く話から、私の心を見てほしいと思うばかりである。これはまあ、随分と贅沢なお願いである。
いつからだろうか。胸ポケットに入れたはずの”時間”が無い。どうやら失くしたらしい。
「いや、そんなはずは。」と記憶を辿ってみると、ちゃんと予定を後回しにして怠惰に過ごした記憶がある。どうやらだらだらと消費してしまったらしい。
そんな時間に対してふと思うことがあった。長く生きていると、ある日「時間の定義が変わった」というニュースが目に留まった。彼の存在はあまりに酸素のようにそこにあったから考えたこともなかったが、酸素という「物質」の当たり前と、時間という「概念」の当たり前は、似て非なるものだった。
そう、時間とは概念であって、物質ではないのだ。
「日時計」というものがある。小学生の頃の授業に出てきた気もするし、どこかの駅前のオブジェで見たことがある気もする。即ち、太陽が作る影が時間を指し示すのである。
つまり、地球が自転する一周を一日としている。正確には、「過去していた」というのが正しい。非常に合理的で素晴らしい定義だと思うと同時に、「そうだそうだ、人が人の営みのために設けたものだった」という当たり前で気にも留めなかった事実に正直驚いた。
だって我々は、CPUのクロック周期はいくつだの、計測器のサンプリング周期はいくつだの、アプリケーションの更新周期はいくつだの、それだけではなく心拍数ですら時間という物差しで常々考えている。
何か閃きを得ようと歩き、走り、休み、その度に「これはどうだ。速いぞいいぞ。遅いぞダメだ。」なんて思ったりもしてきた。
だから今私は、こんなにも「時間」を忘れたい。
この世の法則が時間という一軸によって上手く要約されて、綺麗に解釈されてきたことへの感謝はしているのだ。
だからこそ、今一度「物質」とやらがどんな次元でその特性を表現しているのか、このサングラスを外して見てみたいのだ。
「いつからだろうか。物差しに使っていたはずの”時間”が無い。」
その世界で人は、何を経て生涯を閉じるのだろうか。
あなたは今、幸せであろうか。今日はただ「幸せ」について論理的に考えたいと思う。まず初めに、辞書的には以下の通りである。
し‐あわせ〔‐あはせ〕【幸せ/仕合(わ)せ/×倖せ】
1 運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。「思わぬ―が舞い込む」
2 その人にとって望ましいこと。不満がないこと。また、そのさま。幸福。幸い。
「―な家庭」「末永くお―にお暮らしください」
3 めぐり合わせ。運命。「―が悪い」
「道がわかんねえで困ってると、―よく水車番に会ったから」〈有島・生れ出づる悩み〉
4 運がよくなること。うまい具合にいくこと。
「―したとの便りもなく」〈浄・博多小女郎〉
5 物事のやり方。また、事の次第。
(出典:『デジタル大辞泉』小学館 / Weblio辞書より引用)
こう読んでみると、「幸せ」というものがいかに私の気分次第であり、あなたの価値観次第であり、その姿形は個々に依存するものであるかが分かる。したがって、例えば誰かも知らないあなたがどうか「幸せであってほしい」と願う幸せがあれば、むしろ「不幸せであってほしい」と願う幸せもある、と言えるのである。
幸せの量については、その時々に生まれ、あるいは失われることから、きっと有限なのだろう。
何となく「幸せ」というものが分かったわけだが、何となく「私」という気分屋な人間とどこかその性質が近いように思う。近い、というよりは、私が悩み考え生きている日々に、影のようにぴったりと「幸せの度量」というものが付いて歩いているように思う。

改めて、どうにも幸せの感じ方は人によって違い、本当に全く違うのだ。言ってしまえば、幸せを独占したい者、再分配したい者、欺く者、模倣する者、創造する者、その種別は無数にあるように思える。しかも面白いのは、それぞれの種別で幸せの寿命や総量、質量、耐環境性などが全くといっていいほど異なることだ。
困ったことに、ついに私には答えが出せない。出したくないのだ。
だって「幸せの定義」なんて眩しいものはいっそ、自身の墓石にでもその答えを彫りたいほどである。その答えを出すには、もう何十年もまた人を生きてからでよいと思う。
ただ今は、手の甲にそれを描いてお互いに差し出した時に、上下左右まったく違うあなたの「 」を「幸せ」と読めるようでありたいのだが、今の私にその度量はないのである。


